和田新發意墓
同村にあり俗傳ニ云貞和五年新發意源秀は楠正行と共に河内苅屋村に戦死す
其家人遺骸を本土に葬す今森の中に寺あり多聞天を安す相傳フ和田ノ新發意守本尊なりといふ
其家人遺骸を本土に葬す今森の中に寺あり多聞天を安す相傳フ和田ノ新發意守本尊なりといふ
今に見る和田新發意墓
宝興山多聞寺
宝興山多聞寺本堂
名所図会の記述に「同村にあり。」「今、森の中に寺あり。多門天を安す。相傅フ、和田新發意守本尊なりといふ。」とあることから、堺市南区和田の多聞寺を連想し探訪したが、確証がある訳ではない。図書館で調べたところ、和田在住の郷土史家で土師楠嘉氏が次のように発表されていました。
【宝興山多聞寺】
行基の開基と伝えられ、行基作阿弥陀座像、聖徳太子作多聞天像が安置されている。
明治七年の寺院明細書には、多聞天王立像に、楠公、和田新發意所属と付記されいる。
多聞寺の寺名については楠公楠正成の幼名の多聞丸に由来する。との伝承もある。
大阪府全誌に、僧正行基の開創にして、本尊は和田源秀の持念仏・和田氏一族の祈願所なりしと伝ふ。とある。
堺市美術工芸品報告書では、阿弥陀仏は、江戸時代、多聞天王立像は、平安時代後期とされている。なお、前住職の中野氏の話では、墓地にある板碑を調査された人があり、「この板碑は、府内で一番古いものである。」といわれたとのことである。しかし、和泉砂岩で磨耗著しく、年号、内容等は読み取れない。
【和田新發意の墓】
行基の開基と伝えられ、行基作阿弥陀座像、聖徳太子作多聞天像が安置されている。
明治七年の寺院明細書には、多聞天王立像に、楠公、和田新發意所属と付記されいる。
多聞寺の寺名については楠公楠正成の幼名の多聞丸に由来する。との伝承もある。
大阪府全誌に、僧正行基の開創にして、本尊は和田源秀の持念仏・和田氏一族の祈願所なりしと伝ふ。とある。
堺市美術工芸品報告書では、阿弥陀仏は、江戸時代、多聞天王立像は、平安時代後期とされている。なお、前住職の中野氏の話では、墓地にある板碑を調査された人があり、「この板碑は、府内で一番古いものである。」といわれたとのことである。しかし、和泉砂岩で磨耗著しく、年号、内容等は読み取れない。
【和田新發意の墓】
【引用出典元:「堺泉州」第11号 2001.10.1発行
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